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Christine Lindop『Green Planet』和訳の要約(2019年作成)

Christine Lindop『Green Planet』
高校時代唯一訳せた課題。感想で言っている通り,この本で環境問題について知ることができる。

1 Planet Earth

 2002 年 3 月、仏領ギニア のクールーから アリアン 5 と呼ばれるロケットが宇宙 へと旅立った。ロケットに乗せられたエンビサットは、当時 ヨーロッパが開発した 最も大きく最も高価な人工衛星である。 それは、1 台のバスほどの大きさがあり、上空 100 メートル を 100 分間で 1 周する。そして、太陽光からエネルギーをもらい、地球上の科学者たちに情報を送るのである。 それは、どんな情報だろう。北極圏や南極圏にある氷の変化、洪水や嵐の兆し、森林火災、地震に対する 初期 の情報、海についての情報といったものだ。 2008 年に サイクロンが ミャンマー を襲った際、科学者たちはこのエンビサットから情報を受け取り、それをミャンマーに伝えたのだ。 私たちは、 ESA のウェブサイトからエンビサットが撮った写真を見ることができる。
 エンビサットが宇宙へ旅立った時から170 年前、 ある 他の 旅が始まっ た ――それは、 地球上の生命に対する人々の考え方を一変させるきっかけとなった 旅である。 1831 年、ビーグル号と呼ばれる船が、5 年間の旅のためにイギリスを発った。船には、ある若い英国人が乗っていた。チャールズ・ダーウィンという男だ。彼は、教会で働いていたが、動植物に対しても興味を示し、この旅の誘い を受けた 。チャールズ号は、南米と太平洋のあちこちを旅し、その全ての場所でダーウィンは動植物を注意深く観察した。
 当時のほとんどの科学者たちは、生物の種は変わらないと信じていた。しかし、ダーウィンは、このことが真実ではないかもしれないと考え始めたのだ。彼は、南米の鳥フィンチとガラパゴス諸島のそれが異なることに気が付いた。その上、ある島のフィンチと他の島のそれが 、 時々異なった。大きな種 を食べるフィンチは強大な 嘴 を持つ一方で、昆虫を食べるフィンチは 狭い嘴を持つのである。彼は、それらの鳥は 、 元は同じだったが、異なる場所で異なる物を食べることで 、徐々に変化していったのではない だろうかと考えた。 彼は、旅に帰ってから研究、読書、執筆 に長い時間を費やし、ついに 1858 年、『種の起源』を発表した。彼は、その本の中で 、種は 時間の経過と共に 新しい種に変化し得ると述べた。当時は賛否両論なあったが、今日では、多くの人々がこの考えを正しいと している 。
 ダーウィンの時代以降、 我々は、動物、植物、人間、そして、環境が絶えず変化することを学んできた。時には速く、時には遅く。 時には良い仕方で、時には悪い仕方で。エンビサットは 、 私たちに地球で起きている変化について教えてくれる。 この 50 年の間 は、ますます多くの人々が 、 地球の環境 について一体どんなことが起きているのか ということを探ってきた。 1992 年には、リオデジャネイロで開催された地球サミットに 172 か 国の人々が参加し、 2 週間をかけて地球環境に対する危機について話し合い、地球をより住みやすくしていく方法を探すために合意した。 本書では、 地球をより良いものにしていくために挑戦してきた 名高い 人々、それから 組織 ――例えば Greenpeace やWWF―― に目を向けていく。

2 Going Green

 1950 年代から60年代にかけて、人々は大量の殺虫剤を使い始めた。野菜や果物を食べる昆虫を殺すことで、より多くの野菜や果物が取れるからだ 。そして、その結果、より多くのお金を得ることができる。では、この大量の殺虫剤はどこへ向かうのだろう?土、川、海、空気、鳥、動物、昆虫、それから、我々が食べる食べ物の中である。殺虫剤は、体に良いの だろうか。悪いのだろうか。問題 は ないのだろうか。こうした問いを発したのが、レイチェル・カーソン という科学者である。彼女は、 1907 年にペンシルヴァニアの川のほとりにある静かな町で生まれた。幼いころから生物に関心を示した彼女はやがて科学者になり、アメリカ政府の元で長年働いた。 1962 年、彼女は、『沈黙の春』を発表し、殺虫剤の使用について警笛を鳴らした。
 1950 年代、ボルネオで蚊を介する病気マラリアが発生した。人々 は、マラリアにかかると、高熱、寒気、倦怠感に襲われ、場合によっては死に至る。そのため、政府はDDTという政府はDDTという殺虫剤を大量に使って蚊を殺した。すると、マラリアはすぐに収まった。しかし、すぐに収まった。しかし、それから、人々の家の草屋根が頭上に頭上に落っこちるようになった。芋虫が草を食べてしまうのである。それまではスズメバチが芋虫を食べていたのだが、DDTが蚊のみならず蚊のみならずスズメバチまで殺してしまっていたのだ。ところが、さらに、大きな問題が起きた。スズメバチを餌とする猫の食べ物が無くなり、猫が猫が死んでしまうようにな死んでしまうようになったのだ。すると、今度はラットの数が増大し、それが病気を運ぶようになったのだ。結局、事態はマラリアの時より悪化し、ボルネオの村に11万4000匹の猫がパラシュートで届けられたのだ。
 殺虫剤の使用は、環境問題のうちの一つに過ぎない。人々は『沈黙の春』を読んでから、他の問題についても考えるようになった。1970年代初期、「green」という単語が現われ始めた。これは、色のことを指しているのではない。オーストラリアとニュージーランドである団体や政府組織がこの単語を初めて使い始めた。「green」であるということはであるということは、一体、どういう意味なのなのだろう。
 「green」」に対して、最も重要なことは、動植物や地球、海といった環境を保護することである。そして、他に重要なことはことは、地球上の人間の数を制御することで、地球環境を悪化させることなく人々の生活を良くしようということである。WWFは、世界中のあちこちの環境のために働く組織である。パンダが誰もが知る動物であることから、シンボルマークとしてパンダのイラストを使用している。この組織は、科学者のグループがアフリカの野生生物に対して不安を感じるようにな感じるようになり、設立された。ジュリアン・ハクスリーと他の科学者はと他の科学者は1960年代にアフリカに赴き、大量の野生生物が死に追いやられ続けているのを目にした。そして、彼らは世界中の他の地域でも同様の問題が起こっていることを危惧したのだ。設立から40年以上経つWWFの目的は、危機的な種を救う、川と海を保護する、森林を救う、殺虫剤や水質の変化から環境を保護するといったものである。
 時々、有名人が危機に追いやられた動物や環境問題について語ることがある。レオナルド・ディカプリオは、有名な映画スターだ。彼は、環境に関心を示し、レオナルド・ディカプリオ財団という組織を設立した。その財団は、環境をより良くしようと思う人々にお金を与えるのだ。彼のウェブサイトでそのことについて詳しく知ることができる。

3 Green Peace

 1971年9月、12人が古びた漁船に乗ってバンクーバーを発った。彼らは、アラスカの西に位置するアムチトカ島を発った。そこは野生動物の宝庫だったが、人は誰も住んでいなかった。そして、しばしば地震が起きる場所でもあった。12人は、合衆国がアムチトカで核実験することを危惧していた。「ひょっとしたら、私たちが島に滞在することで、テストが中止されるかもしれない」彼らはそう考えたのだ。合衆国はすぐにはテストを中止してくれなかったが、彼らは抵抗し続け、そして72年に中止された。その時から、グループは「Greenpeace」と呼ばれるようになった。彼らは、暴力を介さずに世界を「green」にしたいと思っている。今や、Greenpeaceは41か国に事務所を有し、300万人近い人々がこの組織に属している。彼らは、どういったことに抵抗しているのだろう。彼らの活動内容は、クジラの保護、放射性廃棄物に対する危惧、熱帯雨林の保護といったことだ。海で何か問題が起きたとき、彼らはそこにボートで向かう。Vega、Greenpeace、Rainbow Warriorrが彼らの所有するボートである。 1985年、Rainbow Warriorにある出来事が起きる。
 あるフランス人の若い女性が、ニュージーランドオークランドにあるGreenpeaceの事務所で働いていた。ところが、彼女は偽名を使い、フランス政府の元で密かに任務を行っていたのだ。彼女の本当の仕事が、、Rainbow Warriorについての情報を入手することだとは誰もが知らなかった。フランス政府は太平洋で核実験をしようと計画していたが、Rainbow Warriorがそこに向かおうと決意していたのだ。政府の計画は、Rainbow Warriorを攻撃し、太平洋に向かわせないことだった。
 1985年6月の午後、オークランドに到着した、Rainbow Warriorの上で、誕生日パーティーが行われていた。8時半ごろ、人々が楽しんでいる隙にフランス人ダイバーが静かに水の中に入り、船の2か所に爆弾を仕掛けた。そして、何人かがパーティーから離れ、12人が船に残っているとき、突然水中で大爆発が起きた。11人はすぐに船から去ったが、11人の写真家がカメラを取りに戻っているとき、2回目の爆発が起き、彼は犠牲となった。
 この出来事はすぐに世界中に伝えられた。数日後にフランス軍に雇われた2人が捕まったが、当初、政府はこの出来事について何も知らないと言っていた。しかし、9月になり、ローラン・ファビウス首相が、爆弾による攻撃が政府の指示によるものだったと伝えた。フランスはニュージーランドに700万ドルの賠償金を支払った。Rainbow Warriorriorは二度と航海できなくなったが、事故から44年後、GreenpeaceははRainbow Warrior Ⅱを世界に示した。今、世界で悪事が起きたとき、この船がそこに向かってくれる。

4 Tropical Rainforests

 熱帯雨林は世界中の33か所か所にある。中南米、中央・西アフリカ、東南アジア・オーストラリアである。それらの地域は、降水量が多く、また温度が高い。大抵、20度から30度である。そして、とても高い木が生えており、高さ35メートルまで成長する。それより低く、屋根の高さ程の木が一体化している場所には、明るい花や果物があり、たくさんの動物がそれらを食べにやってくる。熱帯雨林は、生物の宝庫である。例えば、エクアドルの森には11万5000種の植物があるのに対して、ヨーロッパ全体には11万3000種の植物しかない。多種多様な薬、それから食べ物がが、熱帯雨林からきている。例えば、バナナ、コーヒー、ココナッツ、ババニラ、レモン、ブラジルナッツ、茶、塩、チョコレート、コーニラ、レモン、ブラジルナッツ、茶、塩、チョコレート、コーラなどである。私たちが知らないだけで、実は他にも役立つものが熱帯雨林の中にはあふれているのだ。しかも、光合成によって空気を浄化する役割まで担っている。
 科学者たちは、1960年代にコスタリカ熱帯雨林で、オレンジヒキガエルを初めて見たとき、大変驚いた。オスは体長55㎝しかなく、明るいオレンジ色を纏っていて、メスはそれより少し大きく、黒い体表に赤色や黄色の斑点があった。毎年4月の降雨後、水たまりの上に産卵する。1988年、科学者たちはそのカエルを10匹しか見つけられず、そして翌年11匹を見つけて以降、誰も見たことがない。気候の変化や木々の伐採、殺虫剤の使用などが原因だと言われているが、真相は分からない。私たちは、世界中のどこかで1時間当たり時間当たり4種が絶滅していることを確かに知っている。昨日のこの時間から、百種近くが絶滅しているのだ。
 1925年、シコ・メンデスの家族はブラジルの西に移住した。ゴム樹液の採集者として働くためである。彼らは、ゴムの木に切り込みを入れ、そこから出てくるゴムを取り、森や木々に損害を与えずお金をもらうのだ。シコ・メンデスは、1944年に生まれた。彼の家は、森に囲まれ、9歳にして他の家族と共にゴム樹液者となった。1970年代から年代から80年代にかけて、ブラジルの牧場労働者も森に関心を示した。牛の土地を欲しがり、木々を伐採し焼き始めたのだ。そこで、シコ・メンデスは、他のゴム樹液者と共に森のために闘った。もちろん、反対勢力もいて、1988年に彼は自宅の前で銃殺された。彼の死は、世界中のあちこちに伝わり、多くの人々が、熱帯雨林を保護しようと努める樹液採集者たちにお金を送った。92年の地球サミットがブラジルで開催されると決まったとき、ブラジル人たちは彼のことを思い出したのである。

5 Creating safe places

 人々は 、居住し 、働き、遊ぶための場所を必要とする。動物もそうである。時に、両者のための場所を見つけることが 困難だ。 まず、 地球上の人口の変化について考えてみよう。 1100 年、地球上には 、3 億 2000 万 人の人々がいた。それから 800 年間で人口は緩やかに増加し、 15 憶人になった。 しかし、1900 年から 人口が急増し、 50 年には25 億人、 87 年には 50 憶人、それから 2008 年に 66 憶人に達した。 2050 年には 、 何人になっているのだろう?ますます増える人々は、牛や羊の土地のため、食物を育てるため、家を建てるため、木々を伐採する。 そうして野生動物のための居場所が失われていくのである。
 バイソンがアジアから北米にやって来たのは 、およそ 20 万年前のことである。とても大きく、重い動物だった。角は2メートル近い程だ。数千年前、ネイティブアメリカンはバイソンを狩り始めた。皮を服、家、カヌーに使ったのである。そして骨を武器にした。19世紀初頭、北米には6000万頭のバイソンがいた。だが、ヨーロッパ人がやって来ると、彼らもバイソンに関心を示した。皮からコートを作るために多数を狩ったのだ。また、彼らはバイソンがいることは牛にとって危機的であるとも考えていた。1895年までに北米全体でバイソンは800頭まで減った。だが、1902年にイエローストーン国立公園が誕生し、その中で狩猟が禁止されたことで、バイソンは危機を逃れるようになった。今では北米に米に35万頭ものバイソンがいる。種の動物が800頭しかいない場合、非常に絶滅しやすいため、これはとても幸運なことだった。国立公園は、世界中のあちこちにある。例えば、オーストラリアでは、グレートバリアリーフに住む魚や植物魚や植物はは保護されている。では、国立公園はどのように始まったのだろう。
 100年前、アメリカによって初めて国立公園が作られたとき、尽力したのはジョン・ミュアーという人物である。彼は、1838年スコットランドに生まれ、49年に家族とアメリカに移住した。63年、彼はアメリカ年、カナダ、それから、世界中の各地を旅し始めた。そして68年、彼はカリフォルニアにたどり着いた。シエラネバダの美しい山を初めて見て以降、彼はカリフォルニアにずっと住んだ。羊や牛が山の森に損害を与えていることを危惧した彼は、このことを記事に書いた。そして、90年、アメリカ政府がヨセミテ国立公園を設立したのだ。彼はもう4つの国立公園を作るために手助けした。国立公園を作るという発想は他の国々に広がり、今日では世界の土地のうち33パーセント近くが安全である。だが、動物たちが安全に暮らせるのは、大抵一人の人間が尽力するからなのである。
 アラン・ラビノウィッツという人物は、子供の頃、うまく話せなかった。彼にとっては、人よりも動物とコミュニ―ションを取る方が容易だったのだ。成長してからも動物に関心をもち続けた彼は、大学で勉強した後、中米のベリーズで仕事を得た。ジャガーの研究をする仕事だ。彼の計画は、ジャガーに無線を付け、ジャガーがどう生活しているか、どんな危機にさらされているのとを調査するというものだった。彼は、この仕事を継続させ、5年後、ジャガーについて多くを知った。彼は、ベリーズ政府から自然保護公園を設立する許可を得た。それは、今日、中米全体の動物が安全に暮らせる最も大きな森である。かつてベリーズの人々はジャガーを殺したが、今では彼らはジャガーを保護している。

6 The OceansThe Oceans

 私たちが高いところに行き、地球を見たとき、最も見える色は青色である。地球には、3億6100万立方キロメートルもの水がある。海は、多くの場所では、5000メートルほどの深さがあり、最深部はフィリピンの西にあるマリアナ海溝である。最も暑い場所では26度になるが、南極大陸近くでは氷点下1.4度になる。そして、そこでは多種多様な動物が暮らしている。
 1498年、ポルトガル人探検家のバスコ・ダ・ガマは、南極大陸から離れた大西洋からペンギンを見て驚いた。泳ぎ、馬のように鳴き、空は飛ばない鳥という、不思議で興味深い動物である。今日、世界には18種のペンギンがいて、アデリーペンギンコウテイコウテイペンギンの2種が南極大陸に暮らしている。体表が白黒なのは、水中で見つかりにくくするためである。ペンギンは、太っていて滑稽であるようて滑稽であるように見えるが、水中を速く動くことができる――時速24キロメートル程で。そして、長い距離を泳ぐことができる。コウテイコウテイペンギンは、一か月の間水中にいることができ、およそよそ1600キロメートルを旅することができる。加えて、ペンギンは潜水も得意で、コウテイペンギンは540メートルまで潜ることができるのだ。
 ペンギンは、人々を恐れないために、人々にとってペンギンの卵を取るのが容易かった。1867年、フォークランド島で、人々は40万5000頭のペンギンを殺し、その体から油を得た。今日、ペンギンには様々な危機が迫っている。卵を産む場所を失ったり、ラットや犬に卵や雛鳥を食べられたりすることである。新たな問題として気候の変化もある。温かい海では餌が少なくなるのである。コウテイペンギンは、氷点下60度まで寒くないと生き続けられない。温暖化が、この驚異的な動物の終わりを意味しないことを祈るばかりである。
 気候の変化によって危機状態にいるのはペンギンのみではない。ホッキョクグマもそうである。ホッキョクグマの最も大切な餌は、アザラシである。冬季に多くのアザラシを食べれば、夏季は少ない餌、あるいは、餌抜きでも生きることでも生きることができるのだ。だが、南極大陸の氷が溶け、春が3週間ほど早く来るようになった。そのため、ホッキョクグマにとってアザラシを狩る時間が減ったのだ。今日、ホッキョクグマは痩せている。この20年間で、3万2000頭から2万5000頭に減っているのだ。なぜ氷が溶けているのだろうか。地球温暖化が各地で起こっているからである。科学者は、数百年後には、ホッキョクグマはいないかもしれないと言っている。
 「ファイティング・ニモ」という映画を覚えているだろうか。2003年、多くの人々がそのストーリーを楽しんだ。人々がこの映画を見た後、ニモのような魚を欲しがるのは自然の現象である。ニモは、オーストラリアやフィリピン近くの温かい水の中で生活するクマノミである。クマノミを養育させ販売することは容易である。しかし、問題があった。クマノミの成魚はしばしば稚魚を食べてしまうのである。そのため、人々が野生の魚を取ってアメリカや他の国々で販売したことにより、野生の個体数が減少してしまったのだ。今日、容易に魚を養育することができるが、ニモのような魚を海のいるべき場所にいるままにしてあげるのが正しいと言う科学者もいる。
 ここ数年で、イルカと泳ぐのがとても人気になっているが、人々はかつてからイルカが好きだ。イルカは、小さなグループの中で一緒に生活し、ループの中で一緒に生活し、40年もの間生きることができる。ペンギン同様、速く泳ぎ、深く潜ることができる。その上、水中からとても高くジャンプすることができる。食べ物を探すために音を発して跳ね返ってきた音を聞くのだ。漁師は、昔からマグロが欲しければイルカを探せばよいということを知っている。カリフォルニアの沿岸近くに、とても大きな釣船がある。その船の上からイルカを見つけたら、ヘリコプターで追って、大きなネットでイルカとマグロを捕まえる。イルカは海に返すのだが、この方法でしばしばイルカを傷付けたり殺したりしてしまう。1960年代、およそ35万頭のイルカが毎年この方法で死んだ。それから、新しい法律ができた。マグロの缶詰に「ドルフィン・セーフ」のラベルを表示しなければならなくなったのだ。イルカを殺していない船から来ているという意味だ。1986年、死んだイルカは13万3000頭だったが、2001年には2027頭になった。しかし、これが本当の数かは分からない。今では、大きな釣船には、死んだイルカの数を数える人が乗っている。

7 Cleaning up

 私たちは、原油なしでは生きられない。しかし、それは世界の限られた地域にしかなく、タンカーを使って海を越え 、それを必要とする国々に届けられる。タンカーは巨大であり、もし事故が起きると大量の原油が海に流れ出る。最も有名な事故のうちの一つは、 1989 年にアラスカで起きた。
 89年 9 月の夜、アラスカを出た原油タンカーのエクソン・バルディーズが暗礁に乗り上げられた。 そして、 400 万リットルの原油がこぼれ出た。 それは、 25 メートルプール 125 個分の量に値する。どのくらいの動物が死んでしまったのだろう。 25 万匹の海鳥、 2800 頭のカワウソ、 300 頭のアザラシ、 250 匹のハゲワシ、 22 頭のシャチ、そして大量の
魚の卵だ。砂浜の清掃は困難だった。 1 万人の人、 1000 隻の船、 100 機の飛行機やヘリコプターがこの作業を手伝った。 だが、今日でさえいくつかの砂浜にはまだ原油が残っている。このような事故が二度とアラスカで起きないことを願うばかりだ。
 科学者たちが、最初に原子力発電所を作る計画を立てた際、人々はこれが将来最も良い発電方法にな るだろうと考えていた。空気を汚さず、安全で、周りの土地を大きく変えないためだ。しかし、物事はそう簡単にいかないということを人々は目の当たりにすることになる。 1986 年 4 月、チェルノブイリ原子力発電所で事故が起きた。その日の夜、発電所で大爆発が起き、放射性物質が空気に放たれ北ヨーロッパに広がった。 31 人が事故が起きた 直後に死んだが、放射性物質によって 、 さらに多くの人々が 病気にかかって亡くなった。その中には事故の後清掃を手伝った者もいた。今後もこの事故が原因で亡くなる人が増えることは確かである。また、多くの人々が家を去らねばならなかった――事故の後に 11 万 6000 人、それから 1990 年から 95 年にかけて 21 万人の人々が。 チェルノブイリは依然としてとても危険な場所である。ロシア、ウクライナ、それから、多くの欧州の国々が協力して、発電所に巨大な覆いを被せた。放射性物質はまだ中に滞在している。多くの国々では、新しい発電方法を使い始めている。しかし、中国、インド、ロシアは新たに原子力発電所を建てる計画をしている。果たして安全なのだろうか。

8 A Green future?

 私たちの環境を保護するために私たちができることは何だろう。多くの人々が、地球温暖化が最も大きな問題であると考えている。この原因の一つは、人間による二酸化炭素の排出である。まず、呼吸によって二酸化炭素は外に出る。自動車・電車・飛行機は二酸化炭素を大気に放出する。家を温かくするために石油を燃やすこともそうだ。とは言え、私たちは呼吸し、食事し、旅行し、寒いときは家を温めねばならない。それならば、どうしたらいいだろう。私たちは、濡れた足で床を歩くと足跡が残る。同様に、人々は「炭素の足跡」を残す。生活においてどのくらい二酸化炭素を生んだのか示すものだ。多数のウェブサイトで誰もがそれを計算することができる。
 リオのサミットから10年後の2002年8月、6万人の人々が次の地球サミットのために南アフリカヨハネスブルグに集った。ただ、アメリカのブッシュ大統領は参加しなかった。多くの政府が環境問題を解決すべく懸命に働いており、例えば、デンマークでは、国の電気の1818パーセントが風力発電からきている。しかし、多数の人々はアメリカのような豊かな国々がこうした問題に対してより手助けできると考えている。ヨハネスブルグで合意されたのは、魚と魚を釣る場所の保護、貧しい人々に水を運ぶこと、危険な殺虫剤の使用を止めること、アフリカの熱帯雨林を保護することだ。地球をより良くしていくためには、多くの人々の協力が必要だ――国、政府、家族、そして、あなたも私も。
 4年間にわたって、世界の問題を解決するために750憶ドルがあったとしたら、何に使われるべきか。2004年、デンマークコペンハーゲンに世界各地の専門家が集い、このことについて議論した。これはコペンハーゲン合意と呼ばれ、1週間後に答えが示された。リストの最上位にあったのは何だったのか。それは、6000万ドルで、最も貧しい国々の1億億4000万人の子供たちにビタミンAを買うことだった。ビタミンAがなければ、盲目になってしまう子供もいるのだ。彼らは4年ごとに集い、政府や組織にリストを示す計画を立てている。

感想

 本書を読んで、日常生活の中では知ることのできない多くのことを知ることができました。熱帯雨林で起きていることから極地で起きていることまで、地球の各地で起きていることが網羅されています。どの話題にも有名な人や組織が登場し、読み応えがあって、いくつかの環境問題に対して危機感も芽生えました。環境問題を学ぶ上で、本書よりも適した本はないのかもしれない、そう感じられたほど素晴らしい本です。